写真はハンギョレ新聞から
沖縄では方言で穴をガマと言うらしい。
チビチリガマやシムクガマという言葉を聞いたことはあるが、ほかにもガマはだいぶあるだろう。
ところでこのガマに様々な思いがあるようだ。
沖縄住民にとってこのガマは昔から農作業を終わって、そこに集まり休憩をするだけではなく、宴会を開くなど共同生活の場としても利用されたと伝えられている。
しかし、戦争末期、このガマで住民が集団自決をしたという頼りに接すると、何だか哀れな物語を聞いているようで、胸がちくちく痛む。
当時自分の命を捨てた人は勿論、生きていた人にとっても生きることの悲哀がどのようなものであったか実感せずにはいられなかったのではないか。
「慰霊の日」を迎え、当時家族を亡くし、戦争が残した悔恨の思いで涙ぐむ住民がいるだろうと思うと、悲惨な感じさえするのだ。
それなのに、「日本軍に強いられた」という文章を削らせた意図は一体どこにあるだろうか。
「軍の強制を否定する資料が出てきた」という口実を立てているらしいが、いつもそのような決まりのパタンなのか。
例えば下嶋哲朗『沖縄・チビチリガマの集団自決』(「岩波ブックレットNO.246」岩波書店、1992)には当時日本軍の実態を明らかにした次のような文章がある。
戦争も終盤に近い1945年4月1日のことです。(略)
日本軍はアメリカ軍の上陸を、事前に察知していたにもかかわらずその直前、読谷村に配置した部隊を、南部方面へ引き揚げてしまいました。これは「敵を海岸線で迎え撃つと味方の損害が大きい。内陸部へおびき寄せ、沖縄県民をまき込み総力をあげて消耗戦を行なう。それによって、敵の日本本土への上陸を1日でも遅らせる」日本軍の作戦でした。
日本軍に置き去りにされた読谷村住民は、絶望しながら多数死にました。しかし、それはほんの一部分にすぎません。日本軍に組み込まれた沖縄に民衆は、南部の戦いでその数が今なお確認不能なほど多数死にました。沖縄戦は、軍隊は軍隊自身を守るためにあり、民衆を守るためではない、という軍隊の論理をあからさまに照明して見せたのです。
これは「日本軍に強いられた」確実な根拠ではないか。
このように戦争は恐ろしいものである。
日本の近代作家小林多喜二はその戦争の恐怖が民衆にどのような影響を及ぼすか、その内実がはっきり分る作家であっただろう。
多喜二はその戦争と国家権力に反対し激烈に闘争したため、高等警察に捕まえ、拷問で殺害された。
最近多喜二を読んでいるが、彼が戦争に反対したからと言って、ただそれだけを持って彼を評価するわけではない。多喜二はだれより貧困な人々に対する理解と暖かい配慮の心を抱いていた作家であったと思う。
例えば「党生活者」で多喜二は、自分の生活全てを犠牲にし闘争した地下生活者の犠牲も、労働者農民が毎日生活しながら払っている犠牲に比べると、大したものではないというようなことを述べている。そして、それは20年間農民で苦労してきた父母の生活からすぐ分る。だから自分の犠牲も何百万人の巨大な犠牲を解放するための不可欠な犠牲だと付け加えている。
しかしあいにくこれは結局多喜二自分のことになってしまう。
彼は予めそれを「党生活者」に断って、その「不可欠な犠牲」を実践していくわけだが ここに多喜二の死の意味と今日に蘇る作家精神が共存すると思われる。
戦争と天皇制国家権力に激しく抵抗し逝去した革命戦士多喜二の闘争の根源には、そのような父母への愛、労働者農民や疎外された人々への人間味溢れる配慮と同情があった。
その点を想起すると、青年時代に生を終えた彼の死が惜しくて堪らない。
多喜二時代の戦争と沖縄集団自決時代の戦争は勿論その内実が違う。
しかし、戦争が如何に人間性を抹殺し、全てを犠牲にさせるか改めて強調しなくても理解できるだろう。
戦争に国家権力と軍の介入を切り離して考えることはできない。
だから多喜二もそれと闘い続けていたのではないか。
「日本軍に強いられた」沖縄住民の過去。
現代にも悲劇は続いている。
それを否定し、歴史を歪曲しようとする非道徳的右翼によって。