漱石の満州での講演内容が「確認」される
Kameda 2008/05/27(火) 08:36 HP

紙版に掲載されたのか気づかなかったのですが、ウェブ版に

以下の記事が25日付けでアップされていました。

日本の新聞のウェブ版は無料で記事にアクセスできる

期間は短いので、しばらくするとアクセスはできなくなる

と思います。

http://www.asahi.com/culture/update/0524/TKY200805240108.html

漱石「幻の講演」、旧満州地元紙に 「人には三タイプ」

2008年05月24日15時05分

 作家夏目漱石が明治末、旧満州(中国東北部)の大連で行った講演の内容が、地元の「満州日日新聞」に掲載されていたことがわかった。講演していたことは知られていたが、内容はこれまで「不詳」とされていた。漱石の人間観がうかがえる興味深い内容だ。(牧村健一郎)

 

写真

満州日日新聞に載った講演する漱石のさし絵

写真

1909年9月16日付の満州日日新聞。1面の題字下に講演録の2回目が掲載されている

 漱石は1909年9月から10月にかけ、旧満州、朝鮮半島を旅し、講演を3回している。うち大連での講演については、岩波書店刊の漱石全集でも「掲載紙誌の有無についても不詳」とされていた。

 満州日日によると、09年9月12日午後7時から、大連の満鉄(南満州鉄道)従事員養成所で200人の聴衆を前に1時間余り講演した。この内容が「物の関係と三様の人間」というタイトルで、9月15日から同紙1面に5日間にわたり連載されている。400字詰め原稿用紙にすると約22枚分の分量がある。

引用につき、以下は略

RE:漱石の満州での講演内容が「確認」される
金 正 勲 2008/05/30(金) 10:21

 

「漱石のような人のもののなかにもあった中国人観、朝鮮人観、それが、ごく自然に帝国主義、植民地主義にしみていた」という。(中野重治「漱石以来」昭和33年)

この点については朝鮮の視点からもかつて非常に厳しく捉えられている。(朴春日「近代日本文学における朝鮮像」昭和44年の見解など)

一方「このふざけは、「露助」を追って新たに満州の主人公となった日本人の支配を象徴する満鉄総裁、その友人という彼に近い立場に身を置きながら、上から傲然と睥睨するのではなく、自分を無責任な客員と見たてたところに発している」(米田利昭「漱石の満韓旅行」「文学」第40巻9号1972年)という指摘もある。

他者の権利をおかすことについても敏感な平等主義者であった。そのような見地から、権力と金力の横暴をはげしく憎んだのである。(略)たしかに、「満韓ところどころ」は失敗作である。漱石の民族的偏見や帝国主義的優越感を否定することは出来ない。(伊豆利彦「漱石と天皇制」有精堂1989年9月)

漱石は「満韓旅行」の紀行文で中国を軽蔑する文章を残している。だが、実は個人的に彼は「支那趣味の人」であったのではないか。夏目鏡子には次のような証言がある。

          

 十月の中旬に旅行から戻ってまいりました。玉やら翡翠やらそんなものをだいぶお土産に買ってまいりました。いったいが支那趣味の人で、お金もないのでたいしたものの買えようはずもないのですが、それでもちょいちょい虎ノ門の晩翠軒あたりへ行って、何かと買ってきたりしていたものです。ずいぶん紫檀が好きで、お盆でも机でも莨入れでもむやみと紫檀を買い集めます。それを見て私が、貴方はなんでも紫檀ならいいのでしょう。その中には紫檀の机に紫檀の椅子で、何でもかんでも紫檀ずくめで、支那のものならなんでもござれとすましていたらいいのでしょうが、愛国心のない人だなぞ申しますと、「漱石の思い出」ー「満韓旅行」

漱石における満州(中国)、朝鮮(韓国)は一体何だったか。漱石は1909年9月から10月にかけ満州と朝鮮を訪れた祭、大連で講演もしていることが明らかになった。

「物の関係と三様の人間」という題で、同年「9月12日午後7時から、大連の満鉄(南満州鉄道)従事員養成所で200人の聴衆を前に1時間余り講演したhttp://www.asahi.com/culture/update/0524/TKY200805240108.html」そうだが、何の目的で、何をどのように語ったのだろう。

その講演で漱石は人間を、「物と物との関係を明(あきら)める人(科学者など)」「物と物との関係を変化せしむる人(軍人や満鉄社員など)」「物と物との関係を味(あじわ)う人(文芸家など)」と、三つのタイプに区分し、違う分野で働く彼らが共同に繁栄に向かって前進する必要があることを強調したようだが、満鉄の従事員養成所に集まった満州居住の人々の中には、いわば「物と物との関係を変化せしむる人」がもっとも多かったに違いない。

その2年後の1911年8月明石での講演「道楽と職業」で科学者、哲学者、芸術家などを「他人本位」ではなく「自己本位で」成り立つ職業として指摘したときと比べると、満州での講演はそれぞれの職業を持つ人々の調和と共栄を強調しているような気がする。遠く異国で日本のため植民地経営に参加している人々へのメッセージ。そのような意味も含まれていたのではないか。

明石では次のように述べた。

科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すよりほかに仕方がないのです。哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じって深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。

漱石は明石で科学者を「直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究している」人だと思った。しかし、満州では「物と物との関係を明(あきら)める人」であると見ている。この違いをどう説明することができるだろう。

満鉄総裁旧友中村からの招待であったので、周知の通り満韓旅行にプロパガンダの目的があったのは確かである。しかし満州講演はそのような狙いだけによるものであったとは思われない。そうすると、満州講演の意味は何だったのだろう。

 


映画 「光州5.18」
納谷昌宏 2008/05/25(日) 00:29

今日、大阪梅田のガーデンシネマで映画「光州5.18」(原題:華麗なる休暇)を見た。

たいへん印象的な映画であった。

普通の一般市民が銃をとり、政府軍と戦った様子がありありと描かれていた。

世代も職業も異なる人達が、独裁打倒のために命をかけて戦ったのだ。

あのような崇高な心を持った人達が、光州にいたということを我々は忘れてはならない。

光州は民主化運動の聖地なのだ。

80年前、光州の駅でおさげ髪の朝鮮人女子学生をからかった日本人がいた。

それが光州学生運動のきっかけとなった。

やはり聖地は光州なのだ。

映画では全羅南道庁の建物が出てきた。

3年前に韓国を訪れた際、あそこの観光案内所で光州の地図を貰った。よく覚えている。

28年前、あそこが光州市民の血で染まっていたとは・・・。

かつて民主化のために亡くなった人達のお墓がある望月洞を訪れたことがある。

遺影の写真を見ると、皆真面目そうな顔をした一般市民であった。

彼らに心から敬意と哀悼の意を表したい。

映画で印象的だったのは、最後の場面である。

シネがウェディングドレスを着て、ミナと一緒に並んでいる。

皆、笑っている。幸せそうだ。

しかしシネだけは悲しそうな顔をしている。

現実は、シネ以外の者はすべて殺されてしまったのだ。

皆が笑っているウェディングのシーンは、シネの果たせぬ夢だったのだろう。

非常に印象に残る映画であった。

 

ところで、今回映画館へ行って、おやっと思ったことがある。

女性の観客が圧倒的に多いのだ。

不思議に思っていたら、何と目的はイ・ジュンギ。

イ・ジュンギが射殺される場面で、すすり泣く声も聞かれた。

政治に関心のない日本人のおばさん達も、イ・ジュンギのおかげで、韓国の現代史を知ることが出来た。

この映画が実話だと知って、びっくりしたようだ。

ぜひ多くの日本人に見るように薦めたい映画だ。

 

RE:映画 「光州5.18」
金 正 勲 2008/05/26(月) 19:54

 

                       写真はハンギョレから<強制連行>     

        

 

アメリカ牛肉輸入問題で続いてきたキャンドルデモが、反政府示威に拡散されている。

週末(24日、25日)にかけてソウルではアメリカ牛肉輸入反対の示威が激化し、60人の市民が警察に連行された。

24日ソウルのチョンげー広場で開催された「アメリカ産牛肉輸入反対 17次キャンドル文化祭」の終了後、参加者数千人は道路を占拠し、李明博大統領の宮殿瓦臺に行進した。警察は阻止したが、示威隊はそれに屈服せず徹夜デモを繰り広げた。

警察は25日の夜明け兵力2、400人を投入し示威隊を強制的に解散させ、その中で37人を現行犯で逮捕したという。

いまが1980年光州5・18の時であろうか。なぜ李明博政府は市民運動を武力で鎮圧しようとするのか。

「連行者を釈放しろ」「暴力警察立ち去れ」「独裁打倒」という掛け声は、光州5・18から28年も経っているいまにも韓国の都心で叫び続けられている。

 

RE:映画 「光州5.18」
金 正 勲 2008/05/26(月) 19:05

 

           写真は reviewstarから「映画「光州5.18」」のポスター                              

      

 

 


17日の錦南路
金 正 勲 2008/05/18(日) 09:29

 

5・18民主化運動28周年追慕祭が17日午前、国立5・18民主墓地で開かれた。参加した団体は遺族会、民主化運動負傷者会、拘束負傷者会。

チソン常任委員長は「烈士らが身をもって見せてくれた80年5月の希望はいまだ未完成なので、やはり私達に重い宿題として残っている」、「生きている人らの罪を懺悔しいま一度世に向かって奮然としてたち上がろう」と述べている。

また5・18運動の舞台であった錦南路では「再び立ち上がる錦南路」 を主題に前夜祭が開催され、80年5月を再現した。市民軍と戒厳軍との模擬戦闘、お握り分ち合い、キャンドル行進などの行事が次々と行われ、当時の雰囲気を醸し出した。

      

             17日の錦南路(写真は聯合ニュースから)

         

 

 


朝鮮人特攻隊員の碑
納谷昌宏 2008/05/13(火) 17:31

かつて「ホタル」という映画があった。特攻隊員の人間性を描いた映画だ。

この映画は日本では最初、勇ましい日本映画として右翼に歓迎されたが、

主人公が朝鮮人であること、そしてじっくり見ると朝鮮人特攻隊員の悲しみ

を描いていることがわかり、後に右翼が反日映画として騒ぎ立てた。

 

このたび女優の黒田福美さんが、この朝鮮人特攻隊員の祈念碑を作ろうとし

たが、韓国側の反発に作ることが出来なかったという。

黒田福美さんは韓国通で有名な女優であり、もちろん韓国語もペラペラだ。

日本のワンコリアフェスティバルにも協力し、良心的な人物に見える。

だがどのような意図で、この祈念碑を作ろうとしたのか?

まずその意図が知りたいところだ。

 

韓国内の反発については非常によくわかる。

光復会だけでなく、韓国内の左翼からも反発があったという。

日帝に協力した裏切り者に他ならないからだ。

 

この問題に関して、日本人として出来ることは何か?

それはまず卓庚鉉さんに対して、謝罪することであろう。

日本軍国主義に協力させるために洗脳し、命まで差し出すように仕向けたからだ。

そして次にしなければならないことは、日本帝国主義を断罪することであろう。

日帝は、アジア人民の敵であるばかりか、日本人自身の敵でもあるからだ。

 

日帝を批判する気持ちがどの程度黒田さんにあったのだろうか。

それによってこの碑の意味が全く違ってくる。

 

靖国神社には日本軍に協力し命を落とした朝鮮人、台湾人も奉られている。

それは顕彰であって、謝罪ではない。

「死んでくれてありがとう」という顕彰の意味なのだ。

だから靖国神社を解体し、彼らを解放してやらねばならないのだ。

 

同じことが今回の問題についても言えるのではないか。

まず「殺してしまって、ごめんなさい」と卓庚鉉さんに謝らねばならない。

そして次に日本人として、日帝に対する憎悪の炎を燃やさなければならない。

そしてその立場に立って始めて、本当に卓庚鉉さんに謝罪することも出来る。

そうしてこそ韓国人の理解も得られるのではないか。

 

黒田さんは、沖縄にある慰霊碑のようなものを作ろうとしていたようだ。

しかし沖縄の慰霊碑も日本帝国主義の責任をあいまいにしている。

日帝の犯罪を銘記していないのだ。

 

日本人は何でも責任逃れがお得意だ。

ものごとの本質を示すことが重要だ。

黒田さんはこのことがわかっていなかったのではないか。

黒田さんはちょっと甘いように思う。

 

 

朝日新聞(5月11日) から引用しておく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

朝鮮人特攻隊員の祈念碑、撤去へ 「親日」に韓国で反発

 【泗川(韓国南部)=箱田哲也】日本軍の特攻隊員として戦死した朝鮮人青年を

慰霊するため、韓国通の女優、黒田福美さんらが韓国・泗川市で10日に予定して

いた祈念碑の除幕式が、直前に中止になった。左右両派の団体が「日本のために死

んだ者を称賛できない」などと反発。同市は祈念碑をいったん撤去して保管する方

針だ。

 黒田さんは、戦争の犠牲になった朝鮮の若者の名前を故郷に刻もうと日韓を奔走。

特攻隊員として沖縄周辺の海で24歳で戦死した卓庚鉉(タク・キョンヒョン)(日

本名・光山文博)さんがいたことがわかった。卓さんの地元、泗川市が3千坪の土

地を提供。5メートルの石碑も完成し、10日午前に除幕式を開くことが決まった。

 だが、除幕式が近づくと、植民地時代の独立運動にかかわった人々らでつくる右

派の光復会が「韓国人であっても特攻隊員は天皇に忠誠を誓った人物」と祈念碑へ

の反対を表明。韓国政府の依頼で、植民地時代の「親日人名辞典」のリスト作成を

進める民族問題研究所も「侵略戦争の犠牲者だが、連合軍からみれば加害者でもあ

る」と除幕式の延期を主張した。左派系団体からも同様の声が出た。

 泗川市は混乱を回避するため、市長の式典欠席を決定。9日、黒田さんらに式典

の中止を要請するとともに謝罪したという。日本からも約30人がツアーを組んで

参加し、除幕式に合わせてシンポジウムを開く予定だったが中止に。10日昼には

黒田さんや参加者らが現場に向かったものの、光復会のメンバーらに道を阻まれ、

石碑に近づくことすらできなかった。

 黒田さんは、国籍にかかわらず沖縄戦の全犠牲者の名を刻む「平和の礎」のよう

な施設を目指していた。「創氏改名で日本人とされて死んでいった人たちの魂が帰れ

る場所を作りたい、という一心でやってきた。今回の問題の答えは、後に韓国社会

自身が出してくれると信じている」

RE:朝鮮人特攻隊員の碑
金 正 勲 2008/05/14(水) 16:32

                                                         

実に悲劇的なことだと思う。
なぜ韓国の人々は卓庚鉉の祈念碑建立に反対しているのだろうか。

 

戦争時代、多くの朝鮮人が強制徴用だけではなく色々な理由で戦地まで送り出され、日本帝国主義と天皇のために犠牲になって行った。


創氏改名政策によって光山博文という名前で出兵し、1945年5月11日鹿児島から出撃し(戦闘機)戦死した卓庚鉉もその一人。


彼の霊を慰めるための祈念碑だろうが、卓庚鉉の生に疑問を提起する声があるのも事実。

地元のある市議員は「卓庚鉉は小学校からずっと日本で通い、神風として出征し戦死した。当時強制徴用で引っ張られた韓国人とは違う。」、「祈念碑を建て観光資源として活用したいというのは正しくない」と述べたらしい。


黒田さんの気持は十分分かるが、日本軍隊に自ら志願し戦死した彼の行跡に対して、非難の意見があることも意識せざるをえない。

 

いまも韓国では、太平洋戦争のとき死んだ犠牲者の霊を、その死方や行跡から判別し、どう慰撫するかを決めている。

このニュースに接した全ての人にとって、はたして「平和の礎」とは何かをじっくり考える機会となるに間違いないだろう


 

 

                                                                                                                           

 

卓庚鉉

 

真はOHMYNEWSより

『東京社会主義有志者決議』
Kameda 2008/05/13(火) 07:14 HP

一九〇七年七月二一日に決議を発した。

『東京社会主義有志者決議』

「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」

この決議は直接行動派と議会政策派の両派の機関紙『大阪平民新聞』『社会新聞』に掲載された。

 

RE:『東京社会主義有志者決議』
金 正 勲 2008/05/14(水) 13:55

 

「幸徳秋水や平民社による初期の社会主義社たちは日露戦争に対しての平和主義と非戦の論理は展開していたが日帝の朝鮮侵略阻止の立場は強く主張できなかった。しかし1907年、東京に結集していたアジアからの革命家たちの影響を受け、当時は直接行動派と議会主義派に分裂をしていたが共同の声明文を発表している。」という文章読みました。

ありがとうございます。

 

            

                                   写真はハンギョレ新聞から<趙素昴>  

                                                 

                                          

                                   

  


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