金正勲さま
いまだ梱包をしたままの文献書類、書籍の荷物に囲まれて迷路のような家になっています。
以前にもお知らせした引越し先近く、世田谷文学館周辺の3月末の風景です。
http://yamanohon.exblog.jp/7587455/
今は新緑の樹々に囲まれています。写真に撮る余裕はまだないのですが。
東京は夏に近い気温から一転して土曜、日曜は3月に戻った気温で、最高気温が13℃までしか上がらず、寒い思いをしました。
ファイルで送っていただいた論考を繰り返し読んでいます。
また「通信」20号をブログで読ませてもらいました。
中国国家としての「火」のリレー維持は国民主義的あるいは民族主義的な応酬を
引き起こすものでしかなかったことはあきらかでした。
さて1910年に至る東アジアの社会主義者の状況を簡単に書かせてもらいます。
侵略国家日本の社会主義者のアジア各地の「独立」に向けた意識は、それぞれの国家体制を変革するという意識が優先し、低かった時期が1907年夏まで続きました。
光州出身で日本で政治史を研究しているイ・キョンソクさんに教えられるところが大きいのですが当時の朝鮮の活動家、ジョ・ソアン
(趙素昴・ジョ・ソアン1887-1958 1904年に日本留学1912年帰郷 1913年上海亡命、韓国では「三均学会」がある。1930年代に「三均主義」を理論化。朝鮮の主要な左右合作、民族独立運動組織の運動指針として採択、韓国臨時政府の綱領)
が幸徳秋水たちに影響を与え幸徳秋水、堺利彦ら連名で「朝鮮への植民地的支配強化への抗議声明」(1907年7月21日)を発表します。
このことは、いかに当時の日本の社会主義者の朝鮮の独立運動に対する認識が低かったかをあらわしています。
漱石を擁護するわけではありませんが、日本社会の変革に対する意識が先鋭的な
幸徳たち社会主義者ですら、そのような意識であったわけですから文学者の漱石が
朝鮮民衆に「同情」的であっても、被植民地民衆の立場に近づき得なかったのは止むを得なかったのではないでしょうか。
1907 8月 幸徳、張継らの社会主義研究会で講演 (東京)
1907 夏 「亜州和親会」活動(東京)
1907 8月24日 《在パリ、アナキスト張景などが刊行》『新世紀』10号、日本の朝鮮支配、帝国主義を厳しく告発 (パリ)
http://d.hatena.ne.jp/futei/ 亀田 博